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神さまからのプレゼント

更新日 2018年7月20日

さくら組のある子どもが、担任の先生に連れられて私のところへやってきました。「どうしたの?」と声をかけると、どうやら私に聞きたいことがあるようでした。よく見るとその子の手には礼拝で使う聖書がありました。「先生、これ(聖書)は誰が書いたの?何のためのものなの?」きっと勇気を出してやってきてくれたのでしょう。恥ずかしそうに体を半分担任の先生の後ろに隠しながらのやりとりです。けれども、その目は真剣でした。

私は正直、戸惑いました。なぜなら、聖書は誰が書いたか、書かれた目的は何か。諸説あるもののはっきりとしたことはまだまだ仮説の域を出ないからです。「いやー、それがさぁ。いろいろ調べているんだけど、本当のところはわからないんだよね。」

そう言いかけたときに、その子どもの真剣な目がじっと私を見つめてくれているのに気がつきました。そして、自分が発しようとしていた言葉は「正論によるごまかしだ」と感じました。確かに「わからないものはわからない」ということも時には大切です。でも、この問いかけは「自分自身が問われている」ような気がしたのです。そう思ったので、急いで言葉を引っ込めました。そして、「聖書はね、神さまからのプレゼントだと思うよ。〇〇くんのこと、そしてみんなのことを神さまがどれだけ大事に思っていてくれているかを教えてくれるためのね」と伝えました。たどたどしい言い方だったと思います。けれども、その子は「にっ」と笑ってお部屋へと戻って行きました。

子どもたちの真剣な問いかけは、時に不意打ちのようで、そしてとても鋭いものです。時にその問いかけの鋭さゆえに、ごまかしたり、適当に流したりしてしまうこともあります。でも、その真剣な問いかけと眼差しを受け止めてもらった。悩みながらも、応答してもらった。そんな経験が子どもたち一人ひとりの心を豊かに育んでいくのではないかと思います。そして、同時に問いかけられた私たちにもたくさんの気づきや変化を与えてくれるのではないでしょうか。

過去の記事

秋田ふき迷路

更新日 2018年6月28日

5月28日(月)に「どりーむ・わーくす」の棧敷さん(りゅうじおじさん)の畑で「秋田ふき迷路」を体験させてもらいました。

大きさに驚きました。そして、迷路の中の不思議な世界に心がワクワクしました。

大人の背丈ほどまでに成長する秋田ふきを見て、どうやってこんなにたくましく成長していくんだろうと思いました。すると棧敷さんは「ふきは周りのふきに寄りかかりながら成長していく。だから、一本が小さいからといって取り除いてしまうと、まわりのふきも伸びていかなくなる」という趣旨のお話をしてくださいました。

ふきはそこまで強くはありません。むしろ折れやすい植物です。それゆえにまわりのふきと支え合って伸びていく。確かにふき畑の外側のふきは背が低いことに気がつきました。小さくても、その一本が周りのふきには必要とされているし、小さい一本のために周りのふきが存在している。そんな相互の関係といのちの不思議さを感じました。

私たちも、小さいこと、弱いこと、できないことを取り除きたくなったり、諦めてしまいたくなるかもしれません。でも、むしろその「小ささや弱さが私たちの人生にとって必要で、誰かと一緒に生きるために必要な鍵なのかもしれない」とこの度のふきの迷路を通して思わされました。

私の居場所

更新日 2018年5月14日

知っているはずなんだけれど、まったく別の場所に感じる。そんな体験をすることがあります。例えば、学生時代にクラス替えをして新しい教室に入ったとき。去年まで自分のクラスだった教室に行ってみて、別の学年の人がいるとき。私の場合、仕事柄、教会もそうです。前任地の教会に仕事や休暇の折に訪ねても、そこは「知っているはずなんだけれど、もはや別の場所」に感じます。引っ越しの時もそうです。今まで暮らしていた家から家具が一切なくなった時。数時間前まで生活の気配があったのに、がらんとしたその空間はもう別の場所。「私だけ」が存在していればいいのではないのです。友人や、一緒に生活をした人々、家具など。様々な存在に囲まれて初めてそこは「私の居場所」なんだと思います。

連休中の静かな幼稚園はまるで別の場所に感じます。その中でふと気がつかされたのは、幼稚園はただ建物があれば成り立つというものではないんだ、ということでした。

当たり前のことかもしれませんが、幼稚園に来てくれる子どもたち、送り出してくださる保護者の方々、教職員一人ひとり。教会や地域の方々・・・。そんな、かけがえのないお一人おひとりによって初めてこの場所が、楽しんだり、喜んだり、時に安心して涙を流せたり、生き生きといのちを輝かせることのできる場所として成り立つのだと。そんなふうに思いを新たにさせられました。

連休が終わって、幼稚園にはたくさんの声が響いています。新しい月も、一日一日を大切にして、子どもたちが安心して「自分の居場所」なんだと感じることができるように、励んでいきたいと思います。



バディ

更新日 2017年9月26日

先日、幼稚園の子どもたちが散歩にいくために、年長組と年少組の子ども2人一組になって出かけました。
すると、年長の子どもたちは、自分のペアとなった年少の子どもとしっかり手をつないで、行き返りの道を歩いてくれたのです。途中で、年少の子が「靴の中に砂が入った」と言えば、砂を出して靴をはかせてくれたり、年少の子が転んだら、みんなで待っていてくれました。
道の端を歩いている途中に、真ん中のほうに年少の子が寄ってしまうことがあるので、「もっとこっちだよ」と道の端に寄せてくれたり、ペアになった子に寄り添って歩いてくれたのです。
その光景をみて、ある先生が言いました。
「まるで、バディみたいですね。」
バディとはスキューバダイビングで使われる言葉で、命を預けあった仲間、相棒、伴侶という意味です。
キリスト教が大切にしている聖書には、神はわたしたちの「友」=「バディ」として歩んでくださる存在だと書いてあります。子どもたちは、これからの長い人生のスタートラインに立ったばかりですが、目には見えなくても、心の奥深くに「バディ」としての神の存在を感じているのだと思います。だからこそ、誰かに寄り添うことが自然にできるようになっているのです。その子どもたちの姿を通して、わたしたちも誰かのバディとして心から歩んでいけるようになりたいものです。子どもたちがこれから出会う人や友のバディになれる一人の人間として成長していってくれることを楽しみにしつつ、保育を積み重ねています。

過去の記事

待ちきれない!

更新日 2017年9月26日

「園長先生、お泊り会が早く来てほしくて待ちきれない!」とたんぽぽ組の子どもがわたしに言ってきました。子どもたちにとっては、お泊り会という未知の体験が待ち遠しいのだなあとあらためて感じました。もちろん、新しいことに出会うわけですから、不安や心配があることでしょう。むしろ、不安や心配が生まれてこそ、そこに成長が生まれるのです。
園長として「幼稚園をこれからさらにどんなふうな場所にしていきたいですか?」と問われたならば、わたしはこう答えます。「今以上に、子どもたちにとって幼稚園が待ちきれない出来事や遊びであふれている場所にしたいです」

わたしたち大人は、毎日、明日が待ちきれないと思って生きることはなかなか難しいものです。「仕事に行きたくないなあ」「明日が来なかったらよいのに」とふと思ってしまうことだってあります。でも、大人ですから、それでも「まあ仕方がないか」と自分の中で納得させることもできます。でも、子どもたちが「明日が来てほしくないなあ」という思いで心の中がいっぱいになってしまったら、人間として生きていくための意欲や様々な力が育たなくなってしまいます。少なくとも、幼稚園が「嫌なことをたくさんやらされる場所」になってしまったら、子どもたち自身が伸びようとする力を引き出すことはできません。

幼稚園は「教育」の場所です。教育とは、「教え育てる」と書きますが、もともとは「引き出す」という意味があります。幼稚園も学校も、本来は大人が子どもに何かを教え込む場所ではなくて、力が引き出される場所でなくてはならないはずなのです。

子どもたちの「生きよう・伸びよう」とする力を引き出すためには、新しいことに出会う不安や心配がありながらも、幼稚園は子どもたちにとって、待ちきれない出来事や友だちや遊びであふれている場所になっていく必要があると思うのです。そのような場所にしていけるように、わたしたちも日々を積み重ねていきたいと願っています。

どちらもわたし

更新日 2017年6月16日

 6月、さくら組は「そらのした じめんのうえ」という歌をうたっています。歌詞をみなさんにご紹介します。

1 あめあがり さかあがり ぬれたてつぼう
 ひるさがり ぶらさがり さかさまのそら
 みんなといたり ひとりでいたり たのしかったり さみしかったり
 どちらもわたし いつでもわたし そらのした じめんのうえ

2 いしだたみ つまづいて ころんでないた
 ともだちと にらめっこ わらいころげた
 しゃべっていたり だまっていたり うれしかったり かなしかったり
 どちらもわたし いつでもわたし そらのした じめんのうえ

3 さよならと てをふって かどをまがった
 みずたまり とびこえて うちにかえろう
 いじわるしたり やさしかったり とてもつよくて とてもよわくて
 どちらもわたし いつでもわたし そらのした じめんのうえ

 この歌の作詞は新沢としひこさんです。新沢さんのつくる歌を子どもたちが歌うと、どの歌もいきいきしてくるのがわかります。きっと、新沢さんは子どもたちの心や気持ちや世界観がよくわかる人で、大人にとっても心に響く言葉を知っている人なのだと思います。

 わたしは、上の歌詞で、下線を引いている部分がとても好きです。それは、気持ちが沈んでさびしい時や悲しい時や人にやさしく出来ない時や心が弱ることがわたしたち大人にもあるからです。そして、歌詞にあるように子どもたちにもいろんな気持ちがあります。
 そうはわかっていても、ついつい、わたしたち大人は、「子どもはどの子もいつでも元気で明るい存在だ」と思ってしまいがちです。そして、自分の中にある悲しく、さびしく、弱い気持ちを否定してしまいたくなります。でも、子どもたちもわたしたち大人も神様から命を与えられた人間です。子どもも大人も、悲しい気持ちの時もあれば、嬉しい気持ちの時もあります。「強さと弱さ」、この両方があってこそ「人間」であるはずなのです。

 今の社会や世界は「強さ」こそが大切だと考えられている風潮があるように感じます。そうした風潮の中で「弱さ」や「弱い人」はどんどん切り捨てられていきます。けれども、本当はわたしも他の人ももっている「弱さ」を大切にすることができたときにこそ、子どもたちやこの世界に生きるひとり一人が輝いて生きていけるようになると思うのです。
 そのために、まずわたしたち自身が自分の弱さを受け入れ、向き合える人間を目指して、日々子どもたちに向き合っていきたいものです。

馬場達さんという人がいました

更新日 2017年3月2日

余市教会のメンバーであった馬場達(ばばさとし)さんが、1月23日に天に召されました。82才でした。馬場さんはクリスチャンでしたので、牧師として、わたしがお葬式を行いました。
2016年末のある日、馬場さんは、自分の命の終わりが近くなってきたと感じたのでしょう。わたしに「病院に来てほしい、話がしたい」と言われました。病院に行ってみると、「自分のお葬式はこの讃美歌を歌ってほしい。笑顔のあふれるお葬式にしてほしい。」というお話をされました。
その言葉通り、笑顔があふれるお葬式になったと思います。
馬場さんは、北星学園余市高等学校の3代目の校長として、1965年から草創期の北星余市を支え、一人一人を大切にし、徹底的に向き合うという教育の土台をつくったリーダーの一人です。 ご家族も同僚の先生たちの誰もが口をそろえて話す馬場さんのエピソードがあります。馬場さんは歩いている時、目の前に水たまりがあってもよけないのです。もちろん、靴はビチャビチャになり、ドロドロになります。それでも馬場さんは気にしないのです。それだけ、馬場さんという人は、こうだと思ったらまっすぐに突き進む人でした。その人柄によって、北星余市の教育の土台が築かれていったと言っても、言い過ぎではありません。
北星余市を退職してからは、余市教会の教会学校の校長として、リタ幼稚園の運営委員としての働きを担ってくださいました。リタ幼稚園には5名の運営委員がいます。皆さんは、会われたことがないかもしれませんが、幼稚園の運営委員の一人として馬場さんはいつも陰ながらリタ幼稚園を支えてくださっていました。いつも、リタ幼稚園に来ている子どもたちや保護者の皆さんのために心を砕き、入院しながらも、幼稚園のためにお祈りしてくださっていました。
馬場さんは長い間、教育に携わり、「教育」が「平和」とは切り離せないと考えてきました。それは、馬場さんは小さい頃、「軍国少年」として戦争時代を生き、日本が戦争に負けるという歴史を経験したからです。そして、戦争のあと、二度と日本は戦争をしないと誓った日本国憲法に出会ったからです。人は教育によって戦争に駆り立てられ、協力する気持ちにさせられるし、反対に平和を作り出す思いを育てられるのも教育だということを身をもって体験したのです。
馬場さんは、子どもたちが希望をもって、幸せに未来を生きることができるようにと願っておられました。そして自分の幸せだけではなく、人の幸せも考えられる人になってほしいという願いを持っておられました。そうした人がわたしたちの幼稚園の運営委員をしてくださり、陰ながら支えてくださっていたことを皆さんの心にとめていただけたら嬉しいです。

真剣なクリスマス

更新日 2017年1月17日

クリスマスは、イエス・キリストが誕生したことを祝う時です。
イエス・キリストが生まれた時のことを劇にしたのが、たんぽぽ組の子どもたちが中心になって演じたページェントです。クリスマス会の時にお話をしましたが、ページェントの取り組みを進める中で、何度もわたしが子どもたちに伝えてきた3つのことがありました。
 ①ページェントは本当に真剣にやってほしい。
 ②それぞれの役がどんな気持ちだったかを考えてほしい。
 ③どの役も大切な役だから、自分が希望した役ではない役になっても、大切に演じてほしい。
わたしが子どもたちにこの3つのことを伝えた理由は、聖書の中に書かれたイエス誕生の物語と深く関係しています。

聖書を読んでいますと、イエスを取り巻く環境はけっこう厳しいものであったことがわかります。そもそも、イエスの母マリアと父ヨセフは結婚の約束をしていましたが、まだしていませんでした。結婚していないマリアが子どもを身ごもるということは当時の社会では許されないことでした。しかもそうした中で、物語の舞台であるユダヤの国を支配していたローマ皇帝から人口調査をするために自分の生まれた町に帰れという命令が出されたのです。ヨセフは、マリアとお腹の中の子どもと一緒に生まれ故郷であるナザレの小さな町ベツレヘムに帰えるために旅をすることになりました。マリアがイエスを生んだのは、あたたかい家の中ではなく、馬小屋でした。
実は、この物語には続きがあります。ユダヤの国の領主であったヘロデ王が新しい王様=イエスが生まれたという噂を聞きつけて、探し出して殺そうとしたのです。そのことを知ったマリアとヨセフはエジプトの国へと逃げました。喜びにあふれているはずのクリスマスとはほど遠く感じる物語が聖書には書かれています。マリアとヨセフは大変な社会の状況の中に身をおいて、それでもイエスを育て守っていこうと決意したのです。

「3人の博士たち」も赤ちゃんのイエスを拝みに来るために自分の一番大切な宝物を携えて、命をかけて、「星」に導かれて遠い東の国から旅をしてきました。「羊飼いたち」は、当時嫌われていた職業だったのですが、天使からイエスが生まれたことを聞いて、その出来事を真剣に受け止めてイエスに会いにいきました。「宿屋」もその時の精いっぱいの対応をしました。「天使たち」もこの世界の救い主が生まれるという重大な話を羊飼いやマリアに伝える大切な役目を担いました。

登場人物たちは、みんな真剣に懸命に生きていたのです。だから、子どもたちに、ページェントは「役の気持ちを考えて、真剣に大切にしてほしい」とわたしは伝えました。その思いをしっかりと受け止めて、子どもたちはページェントに取り組んでいました。その子どもたちの姿に成長とこの世界の希望をわたしは感じています。

ブラキオサウルスこんにちは。

更新日 2016年12月9日

リタフェスタの時に、年長の子どもたちが劇をしました。タイトルは「わんぱくだんのめちゃくちゃ大冒険」。わんぱくだんというのは、ケン、クミ、ヒロシという3人が主人公の絵本シリーズです。今回の劇はこのわんぱくだんシリーズをもとにしたものです。実は、タイトルは子どもたちがつけました。そして、劇のストーリー自体もわんぱくだんシリーズの2作品から子どもたちが選び、絵本のお話をあわせ、自分たちでも場面を考えてつくりあげていきました。登場する動物も子どもたち自身がたくさんの候補をあげた中から、話し合って選びました。今回の劇は、いわば「創作」の劇だったのです。
そして、劇や歌をテーマにして作品展も行いました。年長の作品の一つは大きな恐竜。名前は「ブラキオサウルス」。みなさん、あの恐竜をどのようにつくったのかご存知ですか?
まずは、冷蔵庫用の大きな段ボールをつなぎあわせて、そこに図鑑を見ながら何人かの子どもたちが「ブラキオサウルスがいい!」「いや、首長恐竜がいい!」と自分の意見を出しながらもお互いに折り合いをつけながら絵を描きました。それを切り取り、できあがった恐竜の形の段ボールに、新聞紙を丸めたものを貼り付けていきます。そして、上から白い障子紙を貼っていきました。ところがここで問題発生。尻尾と首・頭がグラグラ、足もグニャグニャして恐竜を立てることができなかったのです。子どもたちは「あんなにグニャグニャしていたら、立てて飾ることができないんじゃないの。」ととても心配していました。そこでわたしは「なんとか、恐竜が立てるように考えてみるよ」と子どもたちに言いました。

最終的には胴体と足の部分に木枠を入れて、胴体と首、胴体と尻尾を木の棒でつなげて自立できるようにしました。次の日それを見た子どもたちは「わあ、すごい」と大喜びしてくれました。
恐竜は教会の下の部屋で一週間ほどかけてつくりあげました。最後に絵の具で色を塗り仕上げたのですが、子どもたちの手も顔も服もそして教会の床も絵の具まみれになってしまいました。たまたま、その日に立ち寄ったキンダーリープの杉本店長が「この恐竜、迫力ありますね。そして、この床、ここまでやってる光景はなかなか見れませんね」。これは誉め言葉であったとわたしは思っています。わたしたちは、子どもたちの「これをしてみたい!」という主体的な気持ちを何よりも大切にするのが保育だと考えています。恐竜や人魚をつくっている子どもたちの顔はいきいきして、本当に楽しそうでした。それは、きっと子どもたちが自分たちで考えた劇をテーマにして、子どもたちの「これをしてみたい!」という思いが引き出されたからです。きっと、この恐竜は子どもたちの心に残るものになったと思います。そして、保護者の皆さんの心にも残るものになっていたらうれしいものです。

大人もかけがえのない命

更新日 2016年11月14日

ある時、年長クラスの子どもが泣いていました。お母さんが先に帰ることになり、急に寂しくなってしまったのです。
年長の子どもたちは様々なことができるようになっています。年長は幼稚園の中で最年長ですし、他のクラスの子どもたちの憧れの存在です。ついつい、何でもできるような気がしてしまいます。でも、やっぱりまだまだ5歳、6歳の子どもです。お家の人のことを思い出して泣いたとしても、それは当り前のことなのだなあと、あらためて感じました。

だから、子どもたちが幼稚園に来るだけで、実はすごいことなのです。お家や家族と離れて、幼稚園で一緒にお友だちや先生と生活をしていくことは、子どもたちにとって楽しく嬉しいことでもありますが、同時に安心できるお家や家族を離れることによって緊張や不安も体験することになります。よく考えてみると、わたしたち大人ですら、新しい場所に行き、新しい出会いをするには不安や緊張がつきまとうわけですから、子どもたちが緊張し、不安を抱くのはごく当然のことです。小さな体の子どもたちにとっては、安心できるお家や家族から離れることだけでも、すごいことなのです。そして、何よりも神から命を与えられ、今ここに子どもたちの命が存在し、生かされている。そのこと自体が、かけがえのないことです。

そのことを大前提とした上で、わたしたちはさらに願っていることがあります。幼児期は人間の土台をつくる上で一番大切な時期です。この時期に、たくさん遊ぶことを通して、様々な力が引き出され、社会性を身につけていきます。子どもたちにはこの世界の中で、自分が周りの人と一緒にどのように生きるかを考えて人生を歩んでいくための土台をつくってほしいと願っています。
まず、そのためには、わたしたち教職員ひとり一人がお互いをかけがえのない存在として認め合うことが求められます。ひとり一人違う人間ですから、意見や考え方が違って当然です。違っていても、お互いの存在を否定せずに、お互いを認め合う教職員の関係をこれからもより大切に築いていきたいと思います!

子どもだけではなく、大人ひとりひとりもこの世界に存在すること自体が、かけがえのないことです。そのことを心に留めて、皆さんと共に子どもたちの成長を支えていきたいと願います。

こだわり

更新日 2016年10月14日

「こだわり」と聞くと、どういうことを思い浮かべますか?
運動会が終わった時のことでした。子どもたちが運動会をテーマにして絵を描くことになりました。描き始めると、一人の子が顔を伏せていました。その子が描きたかったのは、組体操の時にした「一本橋」の絵でした。先生が、「どうしたの?」と聞くと、その子は「どういうふうに書けばいいかわからない」と答えました。確かに、いつもは自分が一本橋をやっている側なので、絵で描くのは難しいことなのかもしれません。
すると先生は、周りにいた子どもたちに声をかけました。「ちょっと、一本橋やってみてあげてくれない?」。「いいよ!」。何人かの子どもたちが集まって、一本橋をやってみせてくれました。でも、描けなかったのです。そして、また顔を伏せてしまいました。
すると、ある子が言いました。「ああ、なんだ、ここに一本橋の写真貼ってあるじゃん。これ見て描けばいいんだよ!」。実は、練習の時に撮った一本橋の写真がお部屋に貼ってあったのです。でもその写真を見ても描けませんでした。最終的には、この子はしぶしぶでしたが納得して、運動会の違う場面を描くことにしました。確かに、結果だけみれば、一本橋は描けなかったけれども、わたしはこの子が「自分で」納得できたことが大事だったと思います。
「描けないんだったら、別のものを描きなさい」と先生が言うこともできるのかもしれませんが、それではきっと、この子は納得しなかったでしょう。しぶしぶだったけれども、納得できたのは、周りの大人や子どもたちが、一本橋を描きたいという思いを受け止めて、そのために何ができるかを考えてくれたからです。周りの人がその子の「こだわり」を尊重してくれたのです。
「こだわり」というのは、人によって違いますし、よく考えてみると人間には何かしらのこだわりがあります。だから、こだわりが尊重されるということは、一人ひとりの違いが大事にされることであり、「個人が尊重される」ということです。 
日本国憲法第13条には「すべて国民は、個人として尊重される。…」と書かれています。わたしたちの国は、一人ひとりが違うということを大切にしてきたのです。そして、一人ひとりが違いを持って、尊重しあって生きる権利は天が与えたものだと考えています。
個人の存在や違いを認める。それをキリスト教は何よりも大切にしてきました。だから、これからも大人も子どももお互いの違いを認め合い、尊重しあえる幼稚園として、日々の保育に取り組んでいきたいものです。

信頼関係?

更新日 2016年9月23日

お泊まり会で、子どもたちと船に乗った時のことです。
子どもたちはゴム付きのカラー帽子をかぶりました。ゴムをアゴにかけると風が吹いても帽子は飛ばされないので、先生は子どもたちに言いました。「船に乗る時には、風に飛ばされるかもしれないから、ゴムをしっかりアゴにひっかけてね。」
すると子どもが言いました。「先生の帽子はゴムがないから飛ばされちゃうよ」。先生はこう答えました。「先生たちはいつもと違う帽子だから、ちゃんと頭にしっかりとはまる帽子をかぶってきたからゴムがついていなくても飛ばされないんだよ。」
その言葉に「ふーん、そっか」と子どもたちは答えました。
子どもたちと先生のこのやり取りは、何気ないものに聞こえます。でも、わたしはこの何気ない会話の中にこそ大切なものが隠されていると思いました。
子どもたちが「ふーん、そっか」と答えることができたのは納得したからです。おそらく納得していなかったら、「先生だけ違う!」とか「なんで先生だけヒモをかけなくていいの?」と子どもたちは言ってくるでしょう。でも、子どもたちはそうは言わず、先生の言葉に自然と納得したのです。それは子どもたちが先生を信頼しているからです。そして、先生たちも子どもたちを信頼しています。だからこそ、子どもたちは先生の言葉に納得したのです。
リタ幼稚園では、日々の保育を通して、先生と子どもたちとの間に、子どもたちと子どもたちの間に信頼関係を育むことを大切にしています。人に信頼できることは、これから長い人生を生きていくときに、生きていくための大きな力となると考えているからです。
けれども、信頼関係という言葉を聞くと、どのような関係を思い浮かべるでしょうか?「絶対に裏切らない関係」などといったことを想像しないでしょうか?
でも、人の心はとても弱いものです。この人のことは絶対裏切らないと心に決めていても、裏切ってしまうこともあります。人間ですから間違うこともあります。また、人に裏切られることもあります。
だから、人と人の信頼関係を育むということは、たとえ裏切られてももう一度こちらからあきらめずに関係をつくりなおすことのできる力を育むことだとわたしは考えています。

言うことを聞く子

更新日 2016年7月1日

たんぽぽ組の子どもたちと畑に行った時のことです。さつまいもの苗を植える前に、植え方を畑で子どもたちに説明をしました。ところが、何人もの子どもたちが草や土を触って、下を向いていました。見ていないとわからないので、わたしとしてはこちらを向いて、説明を聞いてほしかったのです。何度か「聞いてほしい」と子どもたちに伝えましたが、また草や土が気になって、すぐに下を向きます。何度かそのやり取りを繰り返した後、わたしは言いました。「僕がお話をしているけれども、下を向いて、聞いてない人もいるよね。みんな、どうする?もうやめる?」。子どもたちが「いやだ。」と答えたので、「じゃあ、みんなどうしたらいい?」とわたしは問いかけました。
すると子どもたちは言いました。「先生の言うことを聞く。」
わたしは思わずこう聞き返しました。「いや、先生が言いたいのはそういうことじゃないんだよね。じゃあ、先生が今すぐに帰ろうと言ったら、みんな言うことを聞くの?」。子どもたちにとって、それはさすがに嫌だったようで「帰らない」と答えていました。
わたしは大人の言うことを聞かなくていいとは思いませんが、ただ単に言うことを聞く人に育ってほしいとは考えていません。大人だって、偉い人だって、賢い人だって間違える時があります。だから、人の言葉をしっかり受け止めて、今はいったいどうするべきかを自分で考えて、行動する人に育ってほしいと考えています。
だから、あの時「先生の言うことを聞く」と答えてほしかったわけではありませんでした。「今、聞いていないとわからなくなるから、今は聞こう」と自分で考えて、わたしの話を聞いてほしかったのです。
それから、10日ほど経ってからのことです。子どもたちとまた一緒に畑に行きました。じゃがいもの土寄せ作業を一緒にしたのですが、この時の説明を子どもたちは真剣な表情で聞いていました。わたしの聞いてほしいとの思いを受け止めて、しっかりと話を聞く子どもたちの姿に成長を感じました。
子どもたちにはその時々に成長の課題があります。むしろ課題があることが当たり前であり、その課題を一つ一つ乗り越えてこそ、子どもたちの成長があるのです。そして、子どもたちの豊かな成長を支えるために、わたしたちは全力を尽くしていきたいのです。
わたしたち大人にも生きてく中で、それぞれの課題があります。それをひとつひとつ乗り越えることを通して、少しずつ人間としての深みや豊かさが出てくるのだと思います。だからこそ、自分に与えられた課題から目をそらすことなく、しっかりと向き合っていきたいものです。今、「わたし」に与えられている課題があるとしたら、それはきっと神が与えた課題なのではないでしょうか。

子どもは何もわかってへんからね

更新日 2016年6月30日

あるテレビ番組の中で子どもに関する話題で盛り上がっていました。その時、1人の芸人が言いました。「3歳の子どもなんて何もわかってへんからね、言ってもわからないんですよ。」
わたしはその言葉に違和感をおぼえました。なぜかというと、3歳の時期というのは、「何もわからない」どころか、言葉への関心が強くなり、言葉を一番おぼえる時期だといわれているからです。それだけ子ども自身が積極的に様々なことを吸収していく時期でもあるということです。大人に依存するところから、自分でしてみたいという思いが高まり、自我が成長していきます。そして、自分だけではなくお友だちに興味を持ち始め、かかわりを求めていきます。自分とは違う存在と出会うわけですから、当然そこでは気持ちのすれ違いやいざこざが起きます。それでも、友だちと一緒に遊ぶことが楽しくて、園でのお友だちとの生活を重ねるほど、友だちと遊ぶことを求める気持ちが高まっていくのです。
土や水、砂、花、草などの自然や身近な動物、虫などにも興味をもち、見たり、触れたり、好奇心をいっぱいにして遊んでいます。
このようにして、3歳時期の子どもたちは自ら様々な体験を通して、多くのことを学んでいくのです。だから、子どもは歩いていてもあっちにフラフラ、こっちにフラフラしてみたり、虫や花を見て座って動かなくなることもあるのです。大人には予定外の行動をする子どもたちに、大人はイライラすることもたくさんあると思います。けれども、予定外の行動をし、大人をイライラさせるほど虫や花や他の物に興味や関心を持つということは、逆にいえば、それだけ好奇心が育っているということです。それは心が豊かに育っていることの証拠でもあります。こうした子どもの姿を周りで理解して見ていてくれる大人がいることに子どもは安心感をおぼえて、より自分たちの生きる世界に興味を持って、その興味を広げていくことができるのです。
3歳の子どもなんて何もわかってへんからね」と言った芸人の言葉。それは大人の一方的な決めつけだとわたしは思います。3歳の子どもが何もわかっていなわけでは決してありません。もちろん、大人のようには理解できないこともあります。
だからこそ、子どもたちの周りにいるわたしたち大人にとって大切なことは決めつけることではなく、「この3歳の子どもにはどのように言ったらわかってくれるか」と子どもに伝わる言葉を考えることです。大人がそのように接してくれたら、子どもたちはより豊かな成長をしていけるはずだとわたしは信じています。

家はゴミ箱やで!

更新日 2016年5月18日

新しい年度が始まり、約1か月が経ちました。
初めは不安に思っていた子どもたちも少しずつ、幼稚園が楽しい場所だと思っている様子を見せてくれています。
4月当初のある日、わたしがバス添乗をした時のことでした。バスに泣きながら乗ってきた子がいました。おうちの人と一緒にいたかったのでしょう。「お母さん!!」と叫んでいました。わたしの膝の上でのけぞりながら、泣いていました。その声を聴いているとわたしも切なくて、だんだんと悪いことをしているような気がしてきました。
すると、一人の子が言いました。
「どうして泣いてるんだろうね?」
「おうちにいたかったみたいだよ。」とわたしは答えました。
「そっかあ」
「おうちにいた方が…」とわたしが言いかけた時、
「楽(らく)だもんね!」とその子が言いました。
わたしはあまりの意外な言葉に、思わず笑ってしまいました。
泣いている子を見て、他の子が「(おうちにいる方が)楽だもんね」
と答えるなんて、わたしは思ってみませんでした。
この子は、お家の方が子どもにとっては楽な場所だということがよくわかっていたんです。さて、皆さんはどう思うでしょうか?
わたしは、その時にふと、祖母(関西の人間です)がいつもわたしに言っていた言葉を思い出しました。「あんたのお父さんたちが小さい頃、いつもこう言ってたんや。家はゴミ箱やで!だから、家はなんでもかんでも吐き出す場所やねんで。」
「家はゴミ箱」というと、よくない言葉に聞こえますが、自分の家というのは他の人には見せない姿を見せてよい場所、安心して自分を出せる場所なんだよと祖母は言っていたのです。
時々、保護者の方から「うちの子、家の中ではめちゃくちゃなのに、幼稚園では全然違うんです」とお聞きすることがあります。でも、それでいいんだと思います。「楽(らく)だもんね!」と言った子のように、子どもたちがお家で「めちゃくちゃ」をするのは、お家が安心して自分を出せる場所だからだと思います。お家で安心して自分をさらけだし、受け止めてもらえるからこそ、幼稚園やおうちのという外の世界で、他のお友だちと譲り合ったり、助け合ったりする関係をつくろうと努力することができるのです。
 そのことをあらためて、子どもの言葉から思い出させてもらいました。子どもたちの姿や言葉は、大人にとって大切な宝物です。

一人一人を大切に

更新日 2016年4月14日

一人一人を大切にするということがわたしたちの幼稚園の教育方針の一つです。先日、ある小説を読んでいた時に、一人一人を大切にするとはどういうことを改めて考えさせられました。
この小説の主人公は食品会社に勤める坂田勇吉です。坂田は町の高齢者の施設にかかわりを持つようになります。そこで坂田が次のようなことを語りました。
「…子供とお年寄りに対して、世の中にはひとくくりにしようという空気がどこかある。どちらにも属さない大人には、個性に気を使う風潮があるのに、だ。それは結局、子供やお年寄りの個性は無視しやすいからだ。子供の『嫌だ』という言葉を、大人は『ワガママ言わないの』と封じ込める。同様にお年寄りが個性を主張することに対しても『年寄りのワガママ』と批判的な目を向ける傾向がある。」
坂田が言ったこの言葉にわたしの心はドキッとしました。
自分の心の中にもそうした子どもへの一方的な見方があるなと改めて気づかされたからです。わたしの姿を振り返った時に、子どもが自分の言ったことを聞かないと腹を立ててしまう自分がいます。
けれども、大人にもその時々の気持ちがあるように、当たり前のことですが、子どもたちにも気持ちがあります。だから、わたしたち大人が他の人から言われた言葉に納得がいかなかいことがあるように、子どもも大人に対して納得いかない気持ちを持つことがたくさんあるのです。でも、どこかそのこと忘れて、子どもが言うことを聞かないと「ワガママ」だと大人はとらえてしまいがちです。
もちろん、幼稚園は集団生活の場所なのでルールを守ることも大切です。だから、その中で自分が納得いかないことも出てくるでしょう。全て納得いくようにすることは難しいことです。
でも、だからこそ、子どもたちは大人と同じように一人の人間として、嫌な気持ちも含めたいろんな気持ちを抱えていることをわたしたちはまずしっかりと受け止めていきたいと思います。きっと、受け止めてもらえることで、完全には納得できなくても、どこかで自分の気持ちに折り合いをつけることができるのではないでしょうか。
一人一人を大切にするという方針を掲げているのですから、まずは、大人であるわたしたち自身の姿を振り返り、子どもたちの思いや気持ちをしっかりと受け止めることのできる幼稚園として、これからさらに歩んでいきたいと願っています。この一年間、保護者の皆さまにはご協力いただきましたこと、心より感謝いたします。

あいさつはしなければいけないもの?

更新日 2016年4月14日

わたしは、朝、子どもたちと挨拶を交わしたいと思い、できるだけ朝玄関にいるようにしています。「○○ちゃん、○○くん、おはようございます!」と言葉をかけると「おはよう!」「おはようございます!」と言葉を返してくれます。でも、子どもたちの中には言葉では挨拶を返さない子もいます。返事はないけれども、こちらをチラッと見る子、ニタッと笑う子、その子によって違う様々な反応が返ってくることもよくあります。それも子どもたちなりの一つの挨拶の方法だとわたしは思っています。だから、わたしは子どもが挨拶を返してこないからと言って、「挨拶をしなさい」とも言いません。静かにその姿を見守っています。わたしは、挨拶は言葉に出して「とにかくしなければいけないもの」だとも考えていません。でも、わたしは挨拶をできるだけ、毎日し続けています。
「挨拶」という漢字の語源を調べると、もともとは禅宗のお坊さんの師匠が弟子と押し問答をして、その弟子の修行や悟りの深さを試すという時に使われていた言葉だといわれています。
「挨」には「開く、押す」という意味があり、「拶」には「迫る、近づく」という意味があります。だから、挨拶という漢字には「心開いて、相手に近づいていく」という意味があるのです。つまり、わたしが相手に挨拶をすることで、「わたしはあなたに心を開いていますよ」ということを表しているのです。
挨拶は人間と人間が関係をつくる上で大切な一つの手段です。
人間関係をつくる時には、「わたしがどうするか」「まずわたしがどう行動するか」が問われてきます。「相手が何かをしてくれるのを待つのではなく、こちらから心を開いて近づいていく」。それは人間関係を築く上でとても大切なことだと思います。
だから、わたしは子どもたちから返事がなくても、わたしから挨拶をし続けます。それは子どもたちに「心を開いているよ」ということをわたしから伝えたいからです。わたしが挨拶をし続けることを通して、子どもたちに幼稚園は「自分の心を開いてもいい場所」だと思ってくれたらいいなあと考えています。
そして、いつか子どもたちが自分で挨拶をすることが人と人とが関係をつくるために大切なものであることに気づき、自分の言葉で挨拶をできるようになっていってくれることを願い、待っています。

クリスマスとは

更新日 2015年12月21日

クリスマスは英語で、Christmas(Christ「キリスト」のmas「ミサ、礼拝」)と書きます。つまりイエスが、この世界の「救い主」=「キリスト」として誕生したことを祝い、礼拝する日ということが本来の意味です。聖書はイエスという赤ちゃんこそが、この世界を救う存在だと語ります。イエスの生き方の中にこの世界の希望を見い出すことができるということです。
クリスマスは、「救い主」「希望」であるイエス・キリストが赤ちゃんとして生まれたことをお祝いする日です。そのことを心に留めながら、保護者の皆さんも子どもたちとクリスマスを心待ちにして過ごしていただけたら嬉しく思います。
キリスト教にもいろいろな「教派」があります。世界のあるキリスト教派では、クリスマスを1月6日や1月19日に祝ったりもします。1月6日は、博士たちがイエスの生まれた馬小屋を訪れた日とも言われています。だから、1月6日まではクリスマスと考えることもできます。
クリスマスの後には、年末・お正月の準備と大忙しになることでしょう。だから、クリスマスツリーなどの飾りはクリスマスが終わった後にあっという間に片づけられたしまうことでしょう。それも、もったいない気がします。せっかくですので、今年は1月6日までクリスマスの飾りを飾ってみるのはいかがでしょうか?クリスマスが終わった後の余韻を子どもたちと楽しむことも、クリスマスの一つの楽しみ方の一つです。
東日本大震災、福島第一原発事故、世界各地で起きる紛争や災害、そうした中で生き続ける人がいて、その現実に生きなければならない子どもたちがたくさんいることを、わたしたちはこのクリスマスに忘れないでいたいと思います。
子どもたちと保護者の皆さんが過ごすクリスマスが心豊かなものとなりますように、わたしたちはお祈りしています。

ページェントは受け継がれるもの

更新日 2015年12月14日

クリスマスに向けて、子どもたちと毎日歩みを進めています。
クリスマスはイエス・キリストがこの世界の救い主として生まれたことをお祝いする日です。だから、クリスマス会ではイエス・キリストが生まれた時の劇=ページェント(聖誕劇)をします。
登場人物はマリア、ヨセフ、博士、羊飼い、天使、宿屋、星。たんぽぽ組の子どもたちが演じてくれます。ページェントの配役は担任が決めるのですが、担任が勝手に決めるわけではありません。子どもたちが自分たちで取り組みたいと思う気持ちを大切にしたいと考えていますので、まずは第1~第3希望まで子どもたちに配役の希望を聞きます。そして、まずは何人でも何回でも、その役を演じていいよという形で始めて、みんなが第3希望まで演じられるように取り組んでいきます。その後で、最終的に配役を決める前に、もう一度、したい役を子どもたちに確認します。なぜかというと、いざ取り組みを始めると、子どもたちの配役の最初の希望が途中で変わっていく場合があるからです。そうしたことを積み重ねて、最終の役決めをします。
とても、時間のかかる作業です。「じゃあ、できるだけ早く取り組めばいいんじゃないか?」と思われるかもしれませんが、それがそうでもないのです。担任は、クリスマス会に一番良い状態に持っていけるように、子どもたちのペースなどを考えつつ、いつ始めるかを見極めて取り組みをスタートさせるのです。
そして、役決めをする時に、もちろんできるだけ第一希望をさせてあげたいとの思いは持っていますが、その子一人一人の状況を見極めながら、この子に今この役をしてもらうことで、より豊かな成長をしてくれるということを考えながら決めています。だから、第一希望の役になる子もいれば、第3希望の役になる子もいます。けれども、子どもたちはそれを納得して、取り組んでいるようです。そうした子どもたちの思いと先生たちの願いがこのページェントにはたくさん詰まっています。そのページェントを観て、ちゅうりっぷ組、さくら組の子どもたちの中に、自分たちもしてみたいとの憧れの思いが生まれていきます。だから、ページェントはクラスを越えて、リタ幼稚園の子どもたちから子ど もたちに受け継がれるものなのです。

命の終わりを迎える人のそばで

更新日 2015年12月1日

わたしの仕事は園長であると同時に、牧師です。牧師として、お葬式を担当することもわたしの仕事の一つです。キリスト教のお葬式に出たことのない方もおられると思いますが、お葬式は、天に召された人とこの世界で最後にささげる礼拝だと、キリスト教では考えていますので、みんなでさんびかを歌い、聖書を読み、お祈りをして、牧師のお話を聞くということをします。
ご家族と様々なお話をさせていただくこともあります。その中で天に召された方がどのような人生を歩んだかを知ることができ、そこから自分の生き方を考えさせられることがたくさんあります。
11月9日、余市教会のメンバーが天に召されました。1913年生まれ、102歳の方でした。9日の午後8時、わたしはご家族とお話をするために自宅を訪れました。ご本人はベッドに横たわって、「ハアハア」と頑張って息をしておられました。わたしはベッドのそばに立って、ご家族と一緒にお祈りをしました。その後、家族とお話していたのですが、8時30分頃、ご家族の一人が言いました。「おばあちゃんの息が止まりそうだよ」。わたしたちは急いでベッドの周りに集まりました。そして、わたしたちが看ている目の前で、息を引き取られました。わたしは、その方の手を握りながら、ご家族と共に涙を流しながら、お祈りをしました。握ったその方の手から少しずつ少しずつ暖かさがなくなっていきました。
わたしは、牧師として、たくさんの人の死にかかわらせていただきました。でも、人が命を終える瞬間に立ち会ったのは、初めての経験です。
この方は、戦争中も生き抜いてこられた方です。辛く苦しい時代の中で、いつも前を向いて、目の前にある自分がするべきことに取り組んできた方です。だから、わたしはこう思います。「きっと、この方は、人生の最後にあの若い牧師と一緒にお祈りをすることが、今自分がやるべきことだと思い、わたしが行くまで待っていてくださったのだ」。わたしはこの方を通して、「命の経験」をさせていただいたのです。この方の最後の姿を通して、命の尊さを感じつつ、わたしたちに与えられた命はとても大切なものだと心に深く刻む機会を与えていただいたのです。
命は尊いものであることを子どもたちに、伝え続けていきたいと考えています。そして、子どもたちには自分にも他の人に与えられた命、どの命も大切なものだと信じる人間に成長してほしいと願います。

また明日来るね!

更新日 2015年9月3日

夏休みが終わり、2学期が始まってから2週間が経ちました。子どもたちも少しずつ幼稚園生活のペースを取り戻してきています。
夏休みが明けて2日経ったある日、帰りの時間のことです。
年少の子どもたちがバスに乗るため玄関にやってきました。すると、職員室にいたわたしと原田さんに向かって「さようなら」とニコニコしながら言ってくれました。そして、次に他の子がこう言いました。「また明日くるからね」。その子は心から明日を楽しみにしているようでした。何気ない一言ですが、園長であるわたしにとってはとても嬉しい言葉でした。
なぜなら、わたしたちは幼稚園が子どもたちにとって何よりも楽しい、明日また来たいと思える場所であってほしいと願い、働いているからです。
明日を楽しみにすることができ、その子が心から楽しいと思えたなら、子どもたちも意欲的に生きることができます。辛いことや嫌なことばかりが続いたら、大人だってなかなか意欲的になれません。。
それは当たり前のことなのですが、大人は生きていく中で、日々の忙しさの中でそうしたことを忘れてしまいがちです。そのようなわたしに「また明日くるからね」という子どもの言葉から、明日を楽しみにすることの大切さを改めて教えてもらいました。
何気ない子どもたちの一言を聞き流さないように、しっかりと耳を傾けて聞く、わたしたちでありたいものです。
今のこの国の指導者たちは、子どもたちが歩む何十年先の未来のことまで真剣に考えているのでしょうか。心のどこかで自分たちは何十年先にはこの世にいないから関係ないと考えているのではないかと思わずにはいられない時があります。子どもたちの未来は、今のわたしたちがつくっている時代の延長線上にあるものですから、わたしたちにとって大いに関係あることです。
だから、わたしたちは少なくとも、子どもたちが子ども時代を最大限楽しく歩めるように、明日を楽しみにすることができるように働いていきたいと願っています。
子どもたちが「明日も来たい!」と思う幼稚園にさらにしていくためには、保護者の皆さんの協力が欠かせません。2学期も共に子どもたちの成長を支えて行きたいと思います。よろしくお願いいたします。

賢い子どもを育てる?

更新日 2015年7月27日

賢い子どもという言葉を聴くとわたしたちはどのようなことを思い浮かべるでしょうか?賢い子ども=学歴のある子ども。どこかにそのようなイメージがあるかもしれません。
先日、来園してくださった岩城敏之さんがこう仰っていました。
「百人いれば百通りの人生や発達の段階があり、それぞれに与えられた能力がある。賢い子どもとは、どんな状況下の中にあっても自分に与えられた命と人生を大切にして、与えられた能力を使って自分と自分の周りの人を幸せにする子どもです。こういう意味での賢い子どもを、社会全体で育てていかなければいけない。」
「赤ちゃんはお鍋をひっくり返すのが楽しいし、2歳の子どもはくるくる回ったり、跳んだりはねたりするのが楽しい。大人にとっては考えられないようなことを、子どもは楽しんでやっている。楽しいとか、面白いとかの対象は違うけれど、「楽しく幸せに生きたい」と願っている気持ちは変わらない。それは大人も同じ。」と岩城さん。
確かにわたしたち大人も幸せになりたいと願っています。
「子どもはあそびを通して幸せを追及している。まさにあそびとは幸せを追及する行為」だということを岩城さんの言葉を通して確認することができました。
子どもたちは遊ぶことが好きです。自分からあそぶことが好きです。実は誰かにやらされているのではなくて、「自分からあそぶ」というこの行為が大切なのです。あそぶという行為は本来、自主的で、意欲的なものだからです。
子どもたちが成長して学校にいきます。学校に行くと「学習」があります。学校での学習は嫌々やっても身につきません。意欲をもって、自ら学習をしようと思う気持ちが大切になってきます。
実は、子どもたちは遊ぶことを通して、意欲的な心を自分の中に育んでいるのです。これから長い人生を意欲的に生きていくための根っこをつくっているのです。大切なのは、子どもたちが大人にやらされているのではなく、自ら楽しいと思って遊ぶことです。誰かにやらされているだけでは、意欲的な心を育むことはできません。
リタ幼稚園はあそびを大切にすること、一人一人の存在を大切にすることを掲げて保育をしています。
子どもたちが自らの意志で遊びを選びながら、楽しく遊び、そして成長していける幼稚園をさらに目指していきたいと思います。

僕ね…、わたしね…

更新日 2015年7月2日

子どもたちは、わたしにいろんな話を聞かせてくれます。
ある日、何人かの子どもとお話をしているとなぜだか「仕事」の話になりました。
わたし「きょうね。お仕事たくさんあるんだ。」
子ども「お仕事、20個ぐらいあるの?」
わたし「いやあ、30個ぐらいかな~」
子ども「僕も大きくなったら、お仕事いっぱいするんだ。そして、お金いっぱい持ったら、ママにゼリー買ってあげるん
    だ。ぶどう味とみかん味。」
何気ない子どもたちとの会話です。でも、この子の言葉からお母さんのことがとても好きなんだなあという気持ちが伝わってきました。この何気ない子どもとの会話の中に、わたしは未来への希望を感じます。子どもたちが一番身近にいる大人であるお母さんやお父さんやお家の人のことを大好きでいられて、そのお家の人のために何かをしてあげたいと思えること、自分以外の「誰か」に心を寄せることができること、これは当たり前のようでいて、とても尊いことなのだとわたしは思っています。
この当たり前のことを「当たり前」と通り過ぎるのではなくて、実はとても尊いことなのだと、立ち止まって感じることのできる大人でありたいと願います。

「嫌だ!」と自分で言える

更新日 2015年6月4日

ある日、朝のクラスミーティングの時間にサークルで座る時の出来事でした。そのクラスでは線の上であれば、好きな場所にイスを持ってきて座っても良いことにしていました。ところが、ある時、朝の遊びの片づけが終わる前にイスを持ってきて座ったり、どこに座るかでケンカになることが続いていました。そこで担任は「最近、片付けが終わっていないのに先にイスを出して座ったり、お友だちと座りたくてケンカになったり、悲しい思いをすることが増えてきたよね。だから、みんなが約束を守れるようになるまでは、先生が座る席を決めようと思うんだけどいいかな?」と子どもたちに聴きました。子どもたちも先生の言葉はもっともだと思ったようで「いいよ…」と答えました。
しばらくして、子どもたちも少し落ち着いてきました。そこで担任は「片づけも少し上手にできるようになってきたから、一度、また前のようにどこでも座って良いってしてみようと思うんだけど、いいかな?」と伝えました。ほとんどの子が「いいよ!」と答えました。ところが、一人の子が「してほしくない」と言ったのです。「席が決まっていないと自分がどこに座っていいのかわからない」という不安が理由でした。担任とその子がよく話し合って、その子も納得してくれたようです。
このエピソードを通して、担任もわたしも嬉しかったことが一つあります。それは、自分の言葉で相手に思いを伝えることが不得意だったその子が、みんなが「いいよ!」という中でも、「してほしくない」と自分の意見を言えたことです。
自分が嫌なことを相手にいやだと言えることは、とても大切なことです。でも、嫌なことはなかなか相手に伝えられない子もいます。
幼稚園の生活は楽しいものであってほしいと願っています。でも、人間と人間が一緒にいるわけですから、やっぱり嫌なことも起きます。嫌なことが起きた時に、“された子”には相手に「いやだ」と気持ちを伝えられようになってほしいですし、“した子”には「された子」の気持ちを考えられるようになってほしいと考えています。
それと同時に、“された子”もただ「あの子に嫌なことをされた」で終わってしまうのではなく、“した子”にもその子なりの理由や気持ちがあったことにも気づいてほしいと願っています。そして、“した子”も自分がしたことを口に出して先生や相手に伝えることで、自分がしたことを振り返ることで、嫌なことや言い方をしなくても気持ちを伝える方法が他にもあることに気づいてほしいと願い、子どもたちにかかわっています。わたしたちは、そうした様々な気持ちをくみ取りながら、人に共感できる心を育んでいってほしいと願っています。

遊びは奥が深いです

更新日 2015年5月8日

「遊び」が子どもたちを育てる。これを教育方針の一つに掲げて、リタ幼稚園は保育をしています。
簡単に「遊び」とはいっても、「遊び」はとても奥が深いものです。今まで、わたしたちは、子どもたちが遊びを通して豊かな成長を育んでいけると信じて、遊びの奥深さについて学び続けてきました。
そして、さらに深めていくために、幼稚園に様々な玩具や遊びを紹介してくださった小樽のキンダ―リープさんに協力をお願いして、今年度から「子どもたちのあそび」について、一緒に考えていくという取り組みを始めました。今後も定期的に研修を続けていきたいと考えています。
今、わたしたちが重点的に考えているのは、「どうやったら子どもたちが遊びに集中できるか」「遊びに集中できる部屋の設定とはどのようなものか」ということです。その一つとして、おままごとコーナーの上に、家の屋根に見立てた布=「天蓋(てんがい)」を取り付けてみました。おままごとは、子どもたちが家での経験を表現する場でもあります。だから、まずおままごとコーナーに必要なのは、お家のような「あたたかく落ち着いた雰囲気」です。天蓋をつけることによって、程よい高さの天井がそこにでき、落ち着きのある空間を作り出すことができます。子どもたちも、その空間が気に入ってくれているようです。
その他にも、料理をするなら食材をどうするか、洗濯をするには何が必要かなど、より家のような空間をつくるために考えることはたくさんあります。どの遊びにもつながることですが、ただそこに道具が置いてあるだけでは、遊びはあまり発展しないのだと思います。だから、玩具が大切なのではなくて、その空間で、子どもたちが楽しく集中して遊ぶには、どうしたら良いかを子どもたちの姿を通して考え、整えていくことが、とても大切だということです。
まだまだ、新たな取り組みは始まったばかりです。保護者の皆さんにも、遊びの面白さを体験していただける機会も設けていけたら良いなあと考えています。

希望を失わないよう

更新日 2014年12月19日

三浦綾子という作家をご存じでしょうか?旭川出身で、クリスチャンです。「塩狩峠」「銃口」「氷点」などの有名な作品を書き、テレビドラマなどにもなっています。
彼女は、初めからクリスチャンであったわけではありません。むしろ、クリスチャンなんて綺麗ごとばかりを言う偽善者だと思っていました。そして、彼女は肺結核を患い、自分の人生を見失い、肺結核の体によくない酒とタバコをし続けました。
愛する生き方を捨てる
教師を止めた年に、肺結核、脊椎カリエスになる。(当時としては死の病)
自分も愛する事ができなくて、オホーツク海に身を沈めて死のうとしたりする。
前川正という幼馴染のクリスチャンが現れます。 北海道大学の医学部の学生ですが、彼も結核になって、休学を何年もしていると言う状況でした。
綾子さんの心のすさみから、煙草を吸ったり、酒を飲んだりしていることを聞き、訪ねてゆくが、拒絶する。(クリスチャンなんて大嫌い)
子どもたちもこれから成長し、生きていく中で、「わたしなんて存在する価値があるのだろうか」と自分自身に悩む時が来ると思います。その時に、子どもたちが最後に、「わたし自身が」
とてもわかりにくいものですが、子どもたち一人一人が希望を失わないような、人生を送るための土台づくりをしていきたいと願っています。
だからこそ、一人一人の思いを大切にしながら、丁寧な保育を目指しているのです。また、冬休み明けに、子どもたちに出会えることを楽しみに待っています。

自分たちでも考える

更新日 2014年12月11日

子どもたちは日々、成長をしていきます。その成長の姿を見ることは、とても楽しみです。けれども、子どもたちの成長は、大人が思い描いている通り、右肩上がりにはいかないことがあります。そうした姿に出会うと、大人はどうするでしょうか?
わたしは成長がゆっくりな子どもでした。だから、親の思い描いていたのとは、違う成長をしていのたです。そんなわたしは、父親から「早くしろ!ちゃんとしろ!」と毎日のように怒鳴られていました。わたしの親も今は反省しているようですが、怒鳴ってでも言うことを聞かせるという育てられ方をしてきました。
そして、気づけば、何か行動をする時に「怒られるから、やめておこう」、「ああ、これやったらまた怒られる」ということを基準にして動く子どもになっていき、自分で判断し、考えて行動することが苦手な子どもになりました。反対にいえば、「怒られなければ、やってもいいんじゃないか」という思いを心のどこかに常に抱く子どもになっていきました。成長するにつれ、そんな自分に悩み、大人になった今も、完全に乗り超えたとはいえない「わたし」がいます。そう考えると、子どもたちにとって、身近な大人の姿というのは、大人が思っている以上に、成長に大きな影響を与えていくものだと思います。
幼稚園では、自分たちでも考えることのできる人間に成長するための土台づくりをしてほしいと考えています。だから、緊急時や危険なことした時など以外は、できるだけ大きな声や強い口調で子どもたちに言葉を言わないようにしたいと考えています。日々の保育の中で繰り返して、今、子どもたちにしてほしいことを強い口調で言い、言うことを聞かせていても、子どもたちの中には「先生に怒られるからやろう」という気持ちができていってしまうだけだとわたしは思います。子どもたちには、今、なぜそれをしてほしいのか、なぜそれをみんながするのかという理由をその都度伝えています。自分で考え、判断して行動できる人間になってほしいからです。幼稚園では、自分たちでも考えることのできる人間に成長するための土台づくりをしてほしいと考えています。だから、緊急時や危険なことした時など以外は、できるだけ大きな声や強い口調で子どもたちに言葉を言わないようにしたいと考えています。日々の保育の中で繰り返して、今、子どもたちにしてほしいことを強い口調で言い、言うことを聞かせていても、子どもたちの中には「先生に怒られるからやろう」という気持ちができていってしまうだけだとわたしは思います。子どもたちには、今、なぜそれをしてほしいのか、なぜそれをみんながするのかという理由をその都度伝えています。自分で考え、判断して行動できる人間になってほしいからです。
怒鳴ったり、強い口調で言うことを聞かせるのは簡単です。けれども、わたしたちは、その道を選ばずに「子どもたちが長い人生を生きていく中で、自分で考えられる人になってほしい」との願いをもって、試行錯誤しながら保育を続けています。

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